[etc] GPL での any later version問題についての議論

「Matzにっき」で、GPL での any later version問題についての議論が繰り広げられている。
http://www.rubyist.net/~matz/20050125.html#c01

この議論の着眼点は興味深いのですが、危険性の議論としてのアンチパターンが現れているのではないでしょうか?

  • 双方が持ち出している事実が異なっており、それを評価するデータや専門家がいない。

 
ライセンスの法的有効性のところが正確でないと議論が上手くいかないと思います。たとえば、「ライセンス変更には著作権者全員の合意が必要」「貢献者は自分のコードを取り下げることができる」とかは正しいのか間違っているのか。それにより危険性の度合いが変わってくるものでしょう。

  • 危険性0を求める立場

危険性がまったく無いことを求めると、ライセンスの有用性が損なわれると思います。これは、ぼくの先日のエントリ
http://d.hatena.ne.jp/harux/20050126#p2
で述べたような事項は、どうしてもトレードオフの関係が発生します。
ですので、危険性0を求めるのでは無く、バランスをどう保つか、有用性を保ったまま危険性をどう低くするかという議論が必要でしょう。議論がすすむにつれ、危険性0|1の話になってしまっている感じがします。

kzuho氏のこの危険性をFSFは周知すべきだという意見も、そのことによって有用性が保たれたまま危険性が減るかという観点から検証するのが良いと考えます。
僕個人の意見としては、それだと危険性は減らないまま、有用性だけが減るのではないかと危惧します。危険性を減らすには、周知とか間接的な方法ではなく、著作権表示の文言の方自体を変更してやるのが良いのではと思います。「バージョン2、もしくは著作権者が拒否しない以降のバージョン」とかそういう感じに。

また、まつもとさんの話は、バランスの方の話だけですね。危険性はそれほど高くないと感じているので当然でしょうね。まつもとさんのプレゼンスからすると、危険性低減についても考慮して欲しいところではありますけれど。

  • という感想を持ったのは

僕の本業である環境問題でも同様の危険性に関する議論が繰り広げられるからです。
「たとえ環境基準以下といえども有害物質が検出されることは認められない」とか「牛は全頭検査しないといけない」とか「環境ホルモンが云々」とかそういうのですね。
では、事実に基づいた定量的な議論をどうやって行えばよいのか?
これは難しい問題で、ここしばらくの個人的テーマであります。